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ゼミ課題読書感想文 橋本友梨恵

 

201104

 


 

ガンディー 獄中からの手紙 森本達雄訳 岩波文庫

 

1.はじめに

 本書に書かれている全15の戒律の中から、今回は1章の「真理」、4章の「嗜欲(味覚)の抑制」、11章の「寛容すなわち宗教の平等」、15章の「スワデジー=国産品愛用」の4つを中心に焦点を当て、思考を展開していきたい。

 

 

2.真理と神の意味

1章・11貢において、「サッティヤ―(真理)」という語が実在を意味する「サット」という語に由来することを述べたうえで、真理のほかには、実際にはなにひとつ存在しない〔在るのは真理だけです〕としている。しかし、そう言いつつも、「サット」や「サッティヤー」という呼称が神をあらわす唯一の、正確かつ完全な意味の呼称であるとしている。そこで私は、神を表す「唯一の正確かつ完全な意味」という部分に聊か疑問を感じずにはいられなかった。

実際、サットやサッティヤ―は多分神を表すもっとも重要な名称と言えると書かれていた。そのため、それらの語が包含する意味自体には正確さと完全性が欠けており、むしろ我々に対し真理や神といった存在自体が「絶対的で揺るがないものである」とそれぞれが心の内で信仰すべき、しなければいけないという強制の意味を含んでいるのではないかと思った。現に、p12には「わたしたちの一挙一足は、真理をめぐっておこなわれなければなりません」とある。そのため、神と真理という語それ自体存在定義が正確かつ完全なのではなく、「神や真理が全ての行動の源であるべきだ」という意識が我々の中に存在し、我々の行動の一つひとつの意味が全て神や真理に帰結する、つまり元をたどっていくと神や真理に基づくものでしかあり得ないので、「唯一の正確かつ完全な意味」とされているのではないかと考える。

 

 

3.偽善行為としての「感謝」・「満足感」

上記のことは、25貢にも書かれている「真理の実現には、全き無私が必要です」という部分からもわかるように、利己的な目的や私欲によってもたらされる言動の全ては真理を実現することと矛盾するとされている。つまり、真理を実現するためには自己抑制が必要となるが、いろいろな食品の摂取をしなければ、自然と自己抑制が身につくであろうという記述がある。ただここでは、自分の口にものを過剰摂取すること、塩を含む調味料を健康上必要であるという場合以外に摂取することや美味かどうかを考えて食物を摂取することは偽善行為であるとされている。

ただ、36貢に「感謝と満足感」という語がある。食物に対する感謝と満足感は、「美味」と感じることと切り離せるものなのか。食物の摂取を薬の摂取のように捉えるべきだという記述から推測するに、我々の体()に摂取されるものは必要最低限のものだけであり、体内に取り込まれるものに対し快楽的な幸福を感じることはいけないという意味であろう。ただ、食物を摂取する際にその恵みを与えてくれた全ての対象物に感謝をし、満足感を得ることは完全に快楽的なものとは異なると言えるだろうか。例えばもし目の前に置かれてある豆一粒を摂取する時、自分の口には豆が合わないと認知していて、豆一粒摂取することを少しでも幸福感が得られるようにと思いながら恵に感謝をする場合もあるかも知れない。また、このような場合だけはなく食物を摂取する際の「感謝」と「満足感」を強制的なものであると認知した時点でそれは利己的な目的のための言動とみなされ、偽善行為とされるのではないかと私は思う。

 

 

4.国産品愛用は強制か

しかし、14章・国産品愛用について書かれている112貢の中に、「たとえ外国製品より品質が劣り、あるいは値段が高くとも、土地の製品を優先することで、できうるかぎり隣人たちを授助することになるでしょう」という記述がある。私は、このことが上記にあるような食物を摂取する際の「感謝」と「満足感」を強制的であると認知した時点で利己的な目的のための言動だという見方と重ね合わせることができると思った。

国産品を本当の意味で愛用するべきだと訴えるのならば、「たとえ外国製品より品質が劣り、あるいは値段が高くとも、土地の製品を優先する」のではなく、「外国製品より品質が劣っていることにいち早く気付き質を向上させる」べきだし、外国のものよりも質が低いのに値段が高ければ再検討するべきだ。たとえ質が悪かろうと値段が高かろうと、それに目をつむってただ国産というだけで製品を優先することは、流動的な言動であり、そこに本当の愛が在るとは考えにくい。もしその考えが隣人を援助する一番の近道だと考えるのならば、それは一種の偏った考え方になり得る。

 11章の76貢にも、「相手が無宗教であり愛の法を守らなくとも、私たちが相手の誤りを指摘するか、もしくは相手がこちらの思い違いを指摘する。あるいは互いが見解の相違を宥恕するだろう。」とある。

 

5.まとめ

 私は、それぞれ個々の戒律に対してではなく、戒律が束ねられて一つの大きな戒律としては矛盾やほつれがあるのは、意外と未完成なものなのではないかと思った。

むしろ、個々の戒律がそれぞれに独立している状態では何も生まれず静かでいられるが、それぞれが束ねられた時、全体の折衷案をリボンのように無理やり外から巻きつけているようにしか、私には思えなかった。

 


 

罪と罰  ドストエフスキー作  江川卓訳 岩波文庫

 

1.あらすじ

イメージされるまでには時間がかかる。一文が長いものが多く、息継ぎのタイミングを見損ないそうになる。そして主人公・ロジオン・ロマーヌイチ・ラスコーリニコフだ。ロシア文学の特徴の一つでもある「余計者」の気配が感じられた。あまり外に出ようとせず、人とも積極的に接しようとしない。それでいて、妹の結婚に際し、心の内をためらうことなくあからさまに、自分の腹の奥底に沈む重石を思いっきり投げつけるかのように、全ての感情をぶつける幼稚さもある。そんな主人公は殺人を犯してしまう。

 

 

2.印象に残った場面

P95ああ、人間というやつは、こういう場合になると、自分の道義心さえおし殺して、自由も、安らぎも、良心さえも、いっさいがいっさい、古着市場へ持ちこむものなんだ。自分の一生なんか、どうにでもなれ!】より

 心の内の、奥深いところにあるラスコーリニコフの悲観的な考え方そのものを鏡のように映し出したかのように見える。妹に対する深い嫌悪感を露わにしたものであったが、殺人を犯してしまった後の彼とこの言葉を重ね合わせると少し残酷なようにも思う。

自分の人生を予期していたかのようだからだ。

 

p133彼は死刑の宣告を受けた男のように、部屋にはいった。彼は何も考えなかったし、まったく考えることができなかった。ただ自分の全存在で、自分にはもはや考える自由も意志もないということ、すべては突然、最終的に決定されてしまったのだということを、ふいに感じたばかりだった。】より

彼が,19時には老婆がひとりきりになるということを自分が全く意図せざる形でしかも容易に事実を捕らえたことにより彼自身は考えが一つの方向にしか向かうことはなくなった。それを正確に形容しているのは「彼は、死刑の宣告を受けた男のように、部屋にはいった。」という部分だ。彼は奴隷のごとく、目の前に広がる景色すら目にも入ってこない位に魂が吸い取られた様相だったのだろう。

 

p352この部屋も模様替えされて、職人たちが入っていった。このことが彼をびっくりさせてらしい。なぜか彼は、この部屋があとときたち去ったときのままでいるにちがいないと思っていた。いや、もしかしたら死体まで床の上の同じ場所にころがっているかもしれない!】

ラスコーリニコフが視界から直接受け取っている世界と想像の世界とギャップをどうしてもうまく埋める訳にはいかなかったのだろう。まるでラスコーリニコフの感覚器官だけがあの時のまま部屋に残り、あとはラスコーリニコフの体の殻だけがするりと抜けて別々に動いているかのように。虚しい位に彼の意識が過去に取り残されているのは伝わった。

 

3.考察

(T)p139において婆の死は正当化されていまっているが、本当にそれでいいのか。

老婆の命と、多くの人の命を同じはかりにかけようとしているが、私はこの行為に意味が見出せない。主人公の考え方はあまりに偏見だ。たとえ老婆の存在が気に食わなくとも、人の命を持って引き換えられるものは何物でもない。私は主人公が本当に老婆の存在が気に食にくわないのだろうとも思えたが、それよりもむしろ自らが意図せざる導きによって受動的に、ただただ意志の無い状態でその行為へと駆り立てられていたようにしか思えてならない。

 

(U)人間の心の中には誰もが、ラスコーリニコフのような静寂に包まれた気持ちと荒れ狂うほど激しい気持ちが自分ではわからないほど深いところに混在しているらしい。ラスコーリニコフの刻々と揺れ動く心情の波に私たちは推測をしてついていくことしかできないが、誰もが彼のような罪を犯す可能性があるということも考える必要があるかも知れない。

 

(V)p96の「犠牲の、犠牲の大きさをちゃんと測ってみたのかい?で、それでいいのかい?損はないのかい?得になるのかい?馬鹿を見ないのかい?」

 私はこの言葉が脳裏から離れない。妹に問うたこの言葉が、本当はラスコーリニコフ本人に向けられたものなのではないかとも思えるからだ。皮肉という例えしか見当たらないが、ここまでネチネチとあれこれ考えをめぐらせることができた彼が犯罪を犯してしまったのは自分の意志とは無関係に動かされているという意識が基にあるのかもしれない。

 我が我でなくなった時、もう一人の自分が現れる。きっと彼はそこに自分を投影し、その自分に殺人は定めであると暗示をかけるかのように促し、実行するに至ったのだろう。

 

4.まとめ

 ラスコーリニコフの中に自分を投影してみようとする。すると、彼の気持ちもわからなくはないという気持ちが湧いてくる。しかし彼の行為では決して許されるものではないし、

一生背負っていくべき荷物なのだ。これこそ罰だ。しかし、罰を背負うことができることは、幸福に値するのではないかとも思う。更生への道を導いてくれるからだ。

殺人後にラスコーリニコフが恐怖にさいなまれたのも罰としての第一歩であり、幸福への第一歩なのかもしれない。

 

 


 

風が強く吹いている 三浦しをん 新潮社

 

 1.あらすじ

 この本は、竹青荘の住人である清瀬が、走の走りに魅了されるところから始まる。

走が竹荘に入居したことで住人は丁度10人となり、清瀬は竹青荘のメンバーであるジョージ、ジョータ、神童、ユキ、王子、ニコチャン、キング、ムサ、走で箱根駅伝を目指そうと突然言い出す。

初めは清瀬の発言に驚嘆と怒りさえ混じる感情を覚えたメンバーだったが、清瀬の巧みなによって皆いつの間にか本気で箱根駅伝を目指すようになる。

 高校時代の過去に揺さぶられる走、故障を負いながらも走ることに真摯にひたすらまっすぐに向かい合う清瀬、ほとんどが駅伝初心者であるメンバーを要する寛政大学陸上競技部。そして駅伝史上初となる、メンバーが10人だけでの箱根への挑戦。一人ひとりが絶対に故障が許されない中、予選会を突破し、夢の箱根へ。

 ムサの大失速や清瀬の右足を激痛が襲う。それでも前に強く、強く走り続けた。

結果は、個人としては第九区間で走が清瀬の元同級生である六道大のエース・藤岡のタイムを1秒更新し、区間新記録を打ち立てた。チームとしては10位入賞を果たした。

 

2.印象を受けた部分と考察

 ここでは、私が印象に残った部分をいくつか挙げたい。

p49「俺にとって走ることは、健康のためでも趣味でもない」清瀬ははっきりと言い切った。「たぶん、走にとってもそうであるように」】より

走ることに明確な答えを出そうともしない走と清瀬の揺るがない気持ちが示されていた。

p109このまま、だれもやめることなく、練習を続けていったら。走は湯船の中で夢想する。竹青荘の住人たちと、本当に箱根駅伝に出られることになったら。そんなふうに考える走の変化が、走は一番意外だった。】より

 今まで孤独の中で走り続けてきた走の,仲間とチームとして走る期待と興奮とが入り混じった感情,そして仲間と走るという未知の世界への想像を掻き立てながらその向こう側を見ている走の洞察力をも感じる。

p130 清瀬は走の言葉をさえぎった。「いいか、過去や評判が走るんじゃない。いまのきみ自身が走るんだ。惑わされるな。振り向くな。もっと強くなれ」】より

 清瀬の強固な言葉が鎖のごとく走の心の弱い部分を掴んで離さず,この言葉を読みこもうとする私にも強烈に響く言葉だった。

p241心地いい。切り裂く風も、踏みしめる道も、この瞬間だけは俺のものだ。こうして走っているかぎり、俺だけが体感できる世界だ。】より
 この瞬間、吹く風も道も視界に入る景色も、五感から伝わる全てのものが走と一体となっている。もしかしたら走は走ることによってのみ得ることができる、この自由のために走っているのかもしれない。走ることによって得る自由を感じることの心地よさを知った走はその虜となる。


p242清瀬は叫びだしたい気持ちを、なんとかこらえた。やっぱりきみしかいない。こんなふうに、走ることを体現してくれるのは。俺を駆り立て、新しい世界を見せてくれるのは、走、きみだけだ。】より
 清瀬はこの本の中で、度々走のことを幸福や善なるもの,走る美しさを体現したものだと言う。しかし、もしかしたら本当は走という存在は清瀬の内面の中にいるのかも知れない。走はもう一人の清瀬なのかも知れない。正確に言えば、清瀬の理想を映し出した姿なのだろう。

p412声援を送ってくれている家族の姿を見て、ユキだけが感じていた些細なわだかまりが溶けていく。それに合わせるように、雪もいま、完全に雨になった。】より
「ユキ」と「雪」がかけ合わさっていると気づいた瞬間、美しさを感じずにはいられなかったのでここに挙げた。ユキの心にあった不安の塊が溶けだしたのと共に、ユキの心の中では喜びと温かい気持ちで雨のごとく涙が溢れるような心情だったのではないかと推測する。

p448「あれは嘘だった」「はい!?」走が奇声に近い声を発したので、ジョージが驚いて顔を上げた。通話口の向こうで、清瀬がざわざわ繰り返す。「きみを信じると言ったのは、嘘だったんだ」】より
走を信じるという言葉を口にした清瀬も、決して走を信じていなかったのではないと思う。信じるという定義を超えて、走という存在そのものに強く魅かれ、いつもは上から物を言っていた清瀬は走を、走の走る姿そのものに陶酔し未来を見ていたのかも知れない。

 

3.この本を読んで

 十人全員の、走ることへの全身が迸るほどの思いが溢れる位にストレートに伝わる。飾り気も傲慢さも一切含んでいない、清々しいほどに爽やかな彼らに胸を打たずにはいられない。黒地に銀色の文字のユニフォームをまとった十人を脳裏に浮かべるだけで十分過ぎる位輝やいている。「強く」走ることは「速さ」とは違う。しかし「強さ」を求めると「速さ」は後から必ずついてくるのだとも思う。王子がなかなかみんなのペースに追いつけなかったこと、大家や清瀬が倒れたこと。寛政大学陸上部はことあるごとに壁にぶちあたってきたが、それは彼らにとって必然だったのかも知れない。そしてその度に、彼らのチームとしての絆はより強固なものとなっていった。一文字一文字を目で追いかけるごとに、私も何かに向かって軽快に、真っすぐに、進んでいけるような気がした。